・当地の集落的な発生時期は不詳ですが、江戸寺時代初期には小規模な集落が形成されていたと推定されています。
出雲街道が開削されると、出雲街道が松江藩主の参勤交代の経路となり当地が難所である四十曲峠の麓に位置していた事から宿場町が整備されたち思われます。
関宿の明確な年代は不詳なものの、寛文年間に出雲街道の板井原宿と根雨宿には松江藩主の御茶屋本陣が設けられた事から、新庄宿もこの頃に成立したと考えられます。
佐藤三郎左衛門家は寛文6年に松江藩主松平家の「御茶屋」に命じられ、宝暦7年に「本陣」となり松江藩主松平家からは苗字帯刀が認められていました。
当寺の本陣は藩主が利用する為に格式の高い意匠が求められ、表門や式台付の玄関、上段の間が備えられ、現在は明治時代に建て替えられた建物ですが、「出雲少将宿」の玄関札が残されています。
脇本陣は木代家(馬場屋)、進家(小松屋)、池田家(本坂屋)が担い、元禄10年に記録された美作国郡村鷹辻帳によると新庄村は改出高451石余、開高193石余だったと記されています。
元禄2年の新庄村は家数249軒、その内、寺院4軒、神社2軒、山伏1軒、木地挽11軒、本百姓63軒、家来66軒、名子102軒。
嘉永年間の記録によると、常備人馬は15人・8疋、家屋100軒、旅篭9軒、辰山稼4軒だったとされます。
文化10年閏11月13日には伊能忠敬の第8次測量で支隊が進三左衛門家を宿所として利用しています。
慶応4年3月8日の早朝に二生を出発した山陰道鎮撫僧録西園寺公望は根雨宿で昼食を採った後に、夕方に新庄宿の本陣佐藤六左衛門家を宿所として利用しています。
翌朝の3月9日の早朝に出立すると美甘宿で昼食を採り、鬼龍山を経て勝山宿に至っています。
現在でも良好な町屋建築が軒を連ね、宿場町らしい町並みを見る事が出来る事から岡山県の「新庄町並み保存地区」に選定されています。
中でも、脇本陣職を担った木代邸は江戸時代末期に建てられた大型町屋建築で内部は三列六間取、身分の高い人物を迎え入れる式台付の玄関や床の間付きの座敷等格式の高い造りで貴重な事から新庄村指定文化財に指定されています。
又、日露戦争の勝利を記念して植樹された「がいせん桜」の並木と街道の両側に水路に流れる水が醸し出す涼しげな音色が評価され「残したし日本の音風景100選」に選定されています。
出雲街道:宿場町・再生リスト
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