佐用宿

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佐用宿:略データ
・場 所・兵庫県佐用郡佐用町佐用
・概 要・当地は古代、「和名抄」で記載されている播磨国佐用郡佐用郷に属していました。

地名の由来は「播磨国風土記」によると伊和大神の妹の玉津日女命が鹿を捕まえその腹を割いて、そこから吹き出る血に稲を撒き、一夜で育てた苗を見た伊和大神が「五月夜に飢えつるかも」と言って国の争いを留て立ち去った事から「五月夜郡」と名付けたと知るされています。

佐用郡衙は近隣の長尾・沖田遺跡に比定され、大型掘立柱建物群や道路の遺跡等が確認され、概ね10世紀頃まで帰農していたと推定されています。

又、鹿庭山(大撫山)は鉄の産地だったようで、播磨国司岸田臣麻呂等が「狭夜郡人」が見出した宝剣を献上し、佐用郡比売命が金の鞍を得たとされます。

佐用都比売神社は佐用郡の産土神で「続日本後記」によると嘉祥2年に官社に指定され、延喜式神名帳には式内社として記載されています。

古代の官道である美作道の経路でもあり、承徳3年に平時範が因幡国司として因幡国府に赴任する際には高草駅から「佐余(佐用)」で宿泊し、美作国の境根に至ったと「時範記」に記されています。

平安時代には満願寺氏を称する豪族によって支配され、上満願寺村と呼ばれていたようです。

鎌倉時代に入り、赤松氏が播磨国の守護職に就任すると、当地には一族である佐用氏が当地に配されています。

佐用氏は初代赤松家当主赤松家範の叔父に当たる頼景が播磨国佐用郡に西山城を築城し地名に因み「佐用」姓を掲げたのが始まりとされます。

鎌倉時代末期の当主佐用範家は朝廷方に与し、元弘3年に発生した淀の久我畷の戦いでは幕府方の総大将名越高家を討ち取る大功を挙げています。

範家は元弘3年、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受けた天津則村に従って各地を転戦し「赤松八大力」に数えられています。

範家は建武年間に佐用城を築城、その後は赤松三十六人衆に数えられた福原氏が佐用城の城主を歴任しています。

天正5年に羽柴秀吉の命を受けた黒田孝孝、竹中重治等に攻められ、敗北を察した当時の城主福原則尚は佐用城に火を放し、菩提寺である福円寺で自刃しています。

豊臣政権下では宇喜多家が支配したものの、慶長5年に発生した関ヶ原合戦で西軍に与した事から没落、代わって池田輝政が入部した姫路藩領となっています。

その後、元和元年に平福藩領、寛永8年に山崎藩領、寛永17年から旗本松井氏の領地となり、松井氏は当地に陣屋を構えています。

一方、慶長9年には津山藩主森忠政により出雲街道が整備され当地はその宿場町である佐用宿が開宿、上町、中町、川原町、新町等が町割りされています。

出雲街道は松江藩の参勤交代の経路として利用された為、佐用宿には本陣が設けられ岡田家が本陣職を歴任しています。

因幡街道と出雲街道が分岐する交通の要衝でもあり、物資が集積される在郷町的な役割もあり大いに賑わったとされます。

現在は近代化や建て替えが進み、伝統的な町屋建築は余り見られませんが、旧本陣付近に僅かに宿場町らしい町並みを感じる事が出来ます。

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