・当地は「和名抄」に記されている美作国大庭郡久世郷に属し、当地の鎮守である久世神社は古代の刑部神社とも云われ、天平年間の銘を持つ神像や棟札がある事から歴史の長さが窺えました。
刑部神社は格式が高く貞観6年8月に従五位上、享保17年6月に正五位に列格し延喜式神名帳には式内社として記載されています。
中世には宮内省の大炊寮領久世保に当たり、美作国の宮内省への年料舂米の輸送体制が円滑に出来なかった際の補助する役割を持っていたと推定されています。
鎌倉時代には久世氏が地頭だったと見られ、正応5年の記録には「美作国御家人久世頼連」の名が記されています。
戦国時代には山名氏、尼子氏、赤松氏、毛利氏、浦上氏、宇喜多氏等が激しい攻防戦が繰り広げられました。
宇喜多領になると、宇喜多家に従ったと思われる沼本新右衛門や牧兵庫、牧菅兵衛等が茶臼山城や大寺畑城に、牧左馬助が神上城に籠っています。
豊臣体制下では毛利領になったものの慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで西軍に与した為、大きく石高を減らし、当地は小早川秀秋領となっています。
しかし、秀秋は慶長7年に嗣子が無く死去した事から改易となり、慶長8年からは津山藩領となっています。
慶長9年に津山藩による街道整備が行われ、当地には一里塚が設けられ、出雲街道の宿場町が町割りされたと思われます。
同年には牛馬市が開催されるようになり最盛期には3万頭が売買され西日本随一の牛馬市と云われる等大いに賑わいました。
元禄年間には伯耆街道も久世宿を通過するようになり重要視されました。「作陽誌」の久世村の項によると「此村伯耆出雲往還之駅伝也」と記されています。
寛永12年に武家諸法度が発布され正式に参勤交代が制度化されると松江藩と広瀬藩、津山藩の参勤交代の経路となった為、久世宿には本陣が設けられました。
松江藩と広瀬藩の本陣は宝暦6年以降、景山家が歴任し、久世宿が出雲街道の中間地に市していた事から、場合によって津山藩主や幕府の巡見使も利用しています。
旭川舟運の拠点となる久世河岸が整備されると、年貢米をはじめ、特産物や日用品等多くの物資の集積地となりそれらの積み出し港として発展しました。
享保11年に津山藩主松平浅五郎が死去すると嗣子が無く、末期養子が認められたものの、石高が10万石から5万石に減石となり当地は天領に組み込まれ、享保12年には久世代官所が設けられています。
代官所は現在の早川町通りに設置され、早川八郎左衛門正紀等の名代官を輩出しています。
現在は真庭市の中心部となり、近代化の為、建て替え等が進みましたが、三板川に架けられた天神橋付近から旭町にかけて、伝統的な町屋建築が纏まって残され風情ある景観が見られます。
出雲街道:宿場町・再生リスト
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