・平安時代後期の貴族である平時範が筆した「時範記」によると、時範が因幡守に就任し、因幡国府に赴任した際、粟倉村板根に宿泊し、境迎えを行ったと記されています。
その後の記録としては文明14年8月10日の広峯神社の社家である林家長の檀那村庶(肥塚家文書)に美作国の内に「さかねのむらといや兵衛」、天文14年2月吉日の同、肥塚氏の檀那村付帳(肥塚家文書)に「西あわくら内さかね名」と記されています。
板根宿は因幡街道の難所である志戸坂峠の麓に位置する交通の要衝で、物資輸送の拠点となる問屋も置かれていました。
「因幡誌」によると「難所ニテ、大雪ニ牛馬通ラズ」と記され、作州側では「因幡通いすりゃ、吹雪が降りかかる。帰りゃ妻子が泣きかかる」と唄われました。
常備馬は六疋、大原宿までは三里、駒帰宿までは三十二町、志戸坂峠までの九町は急峻な坂道が続き、大雪の際には牛馬も通行する事が困難だったとされます。
江戸時代に鳥取藩が成立すると、因幡街道が藩主池田侯の参勤交代の経路として利用され、智頭宿の御茶屋で宿泊すると、翌朝に出立し、駒帰宿と板根宿で休憩し、大原宿の本陣で宿泊しています。
江戸時代後期の文化2年の冬に隣の大茅村の農民が問屋を通さず牛に荷物を積み坂根宿を通り過ごそうとした事でそれを阻止しようとした坂根宿の住民と騒動となり、明石藩に訴える事件が発生しています。
同年の夏には大茅村の村人5人が再び問屋を通さず牛馬に荷物を背負わせ坂根宿を通過しようとした為、宿場の大人3人と大喧嘩となり、大茅村の5人は大きな怪我を受け、1人は命に関わる程の重症を負ったそうです。
明治6年に承久の乱に敗れ、隠岐に流され配所で崩御した後鳥羽上皇の遺骨の一部が皇居内の皇霊殿に奉斎されると事となりました。
隠岐の島を出立した御鳳輦が因幡街道を利用し11月25日に志戸峠を越えると、坂根村ヤシキ467番地で御休息し、同日中に大原町の有元家でお泊まりになっています。
明治22年に北条県令により街道の大幅な改変が行われ、昭和9年に岡山県と鳥取県を繋ぐトンネルが開通すると、当地の交通上の重要性が失われました。
現在、街道沿いに民家が並び、宿場町の雰囲気が残されているものの、過疎化により多くの住民が当地を離れた為、その遺構は失われつつあります。
因幡街道:宿場町・再生リスト
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